こんなはずではなかった

「お断りします」
 は、と。思わず声が出てしまいそうになった。
 静かに空気を呑む。実態を持たないはずのそれが喉に落ちていく感覚がして、ジェイド・カーティスは自身が少なからず動揺をしていることに気づく。
 目の前にはかつての幼馴染、いや、ずっとジェイド自身は「腐れ縁」と表現していた人間がいた。今や同僚となって久しい彼と、深い時刻まで作業に追われて。
 そして、そうだ、いつからともなく世間話になって、普段はしないような家の雑事の話になって。
「いっそ一緒に暮らしてみる、というのは」
 そう提案したのはジェイドのほうだった。らしくない、ありえない。自分もそう思いたかった。体調が悪いのかもしれない。早くも耄碌したのかも知れない。しかし口に出してしまった事実は変わらない。冗談にして済ましてしまおう、と、動かそうとする舌が意思に抵抗する感覚がある。それに違和感を覚えているうちに、彼が口を開いてしまった。
「お断りします」
 ほんの少し、動揺のために見開いたジェイドの瞳が意図せず彼を射抜く。主張の強い瞳がこちらを向き、
「どうせ冗談でしょう」
 痛ましく歪むのを見た。

 嚥下した酸素が、腹の中にことり、と落ち、居心地悪く這いまわる。
「…おや、ばれてましたか。」
「ええ、貴方は最近、らしくない冗談を言うのが趣味のようですから」
「そんなにおかしいですか、わたしがあなたと暮らしたいというのは」
「…貴方、一度自身の言動を振り返ってみるといいですよ」
「不必要な過去は振り返らない主義なんです」
 腹の中のものは這いまわり続け、思ってもないことを言い続ける。
 思ってもないこと?
 果たして、そうなのだろうか、果たして、本当に、自分は
「…なんだか最近、ずっと様子がおかしいですよ。わたしに構わず、休息をとったほうがよろしいんじゃないですか。」
 様子がおかしい。そうだ、自分はずっと、最近どころか、様子がおかしい。
「おやすみなさい、ジェイド」
 彼が自分の同僚になってから、彼の、自分を呼ぶ声が、他人のそれになった時から。
 ずっとずっと、得も言われぬ焦燥感に駆られている。
 こんなはずではなかったのだ。
 こんなはずではなかったのだ。私たちは。


ディストが「幼馴染としてのサフィール」としてではなく、ひとりの人間として目の前に立った時のジェイドとディスト。

2022.12.01.22:21