退路はひとつ

 もう、こんなのやめたいんです。
 さりげなく言おうとしたその言葉は、震えて、固まって、結局あからさまだった。前々から考えていて、いつ言おういつ言おうと機会をうかがって、やっとの思いで口にしたということが、明るい室内で完全に露呈していた。
 ディストは自身の拙さに唇を嚙む。鼻をすすると、化粧のために頬にはたいた粉のにおいがして、今すぐシャワーを浴びたくなった。もう夜も遅い。早く化粧を落として、からだをきれいにして、ゆっくり布団に入りたい。
「だから、今日は帰って、ください。ジェイド。」
 テーブルを挟んだ向かいの席に、この男がいるから。だから、自分はまだ化粧を落とすわけにはいかない。ディストにとって、これは一つの意思表示だった。
 ジェイドはテーブルに肘をついた姿勢のまま、少し目を眇めた。マナーが良いとは言えない姿勢に、彼の同僚は驚くかもしれない。しかし、ディストの目にはそのさまが自然に映っている。彼はもともと横暴で、他者からどう見られるかなんて気にしていないのだ。
 ジェイドは顎を少し上げて、続きを促す。口にはしないが、言ってみろ、と目が述べている。

 言ってみろ、お前が、私に、言えることがあるならば。

 こういうときばかり。こういうときばかり、昔のような顔をする。ディストはため息をついて目を伏せる。ジェイドのそんな表情に、見惚れそうになってしまうからだ。ジェイドが私の一番好きな顔をするのは、こんなとき、私がジェイドから離れようとするときばかりだ。
「貴方も、疲れませんか。こんなお決まりのやり取りばかりして。」
「……というと?」
「私がいつも……一方的に、貴方を追いかけまわして、貴方はそれをあしらって、あげつらって、からかって……私はいつだって貴方より愚かで、貴方はいつだって私より聡明で」
「譜業に関しては、貴方の知識を借りる時もあります。」
「そういう、貴方がもってなくて当たり前のものの話をしているのではありません。」
「つまり何が言いたい」
 低い声。ジェイドは相手を操作したいとき、声の高さに特に変化が出る。彼がこうやって低い声を出すと、音量を保とうとしても少し響きが大きくなってしまう。それに本人は気づいているのだろうか。そんなところをどうしようもなくいとおしく感じていることを、彼は気づいているのだろうか。
「もう、そういうお決まりの関係を、なぞるようなことをやめませんか、ということです。あなたといると、私は、一つの役に固定されているような感覚がある……私はもう、わかっているのです。貴方が昔とは違うということを。もう元には戻らないということを……昔はわかっていなかったけど、人が変化していくことを知りました。私も変化しています。その変化を、貴方は……貴方たちは……貴方とピオニーは、無視している。自分ばかり変わって、私は変わらないと思ってる。いつだって愚かで拙いサフィールとして私を扱う……幼馴染の枠に私を押し込む……もう、あれから何十年も経ちましたよ。私たちはもう、個人なのです。」
 やっとの思いで言葉を口にする。感情を、こんなにゆっくり話すのは、久しぶりだった。いつだって、いつだって誰かが、ジェイドやピオニーが、口をはさんでしまうから。もしくは、どこかへ行ってしまうから。
 目頭が熱くなり、鼻をすする。テーブルに何かが擦れる音がして、見るとハンカチが差し出されていた。
「とりあえず拭いてください。鼻垂れディスト。」
「……薔薇ですよ、薔薇。」
 ジェイドの赤い瞳が三日月形に歪み、苦笑する。ディストは簡単に顔を拭き、立ち上がった。
「化粧を落としてきます。飲みなおしましょう。」
「いいんですか?」
「ええ、貴方が最後まで聴いてくれたお礼です。」
 後ろからジェイドの咳払いが聞こえる。ディストは軽く吹き出しながらバスルームの扉を閉めた。
 そして、狭い室内で、長い長い息を吐いて――少しだけ、嗚咽を漏らした。


変わっていこうとするディストとジェイド。

2022.12.09.09:58