はじまり

 始まりは、本当に偶然だった。否、彼にとっては未だに「偶然」だったのかもしれない。
「おや」
 勤めを終えた一日の終わり。帰路を進もうとしたジェイド・カーティスは足を止めた。彼に声を掛ける人物がいたのだ。
「あなたも今終わりですか、ジェイド?」
「……ええ」
 ジェイドは低く声を漏らした。まるで、今まさに彼に気づいたかのように。しかしジェイドには、サフィールが声を掛けてくることはわかっていた。数秒前から、妙に急いた足音が近づいてきていたからだ。柔らかい足音は兵士のものではない。遠くから大声で声を掛けてくることもない。だが、妙にあわただしい。そんなちぐはぐな上品さを備えているのは、彼の知る限りサフィールだけであった。罪人であり、研究員である彼の職場もここである。ちょうど終業のタイミングが重なったのだろう。
「あなたにしては、ずいぶん早いのですね」
「そちらこそ、研究機関は最近労働条件の見直しでもなさったのですか?それとも納期がすごく先延ばしになったとか。」
「……まあ、両方と、もう一つ。最近は音機関にシミュレーションをさせることも増えて、言ってしまえばそれの計算待ちなんです。」
「いよいよ人間がいらなくなりそうですねえ」
「計算の仕方や調整は人間が入力するんです!」
 サフィールの反論の声は大きいが、その目には疲労がたまっており、ややうつろだった。ジェイドの視線に気づいたのか、サフィールは眼鏡を外し瞼を拭う。
「ここ最近は勤務時間がどうしても長くなってしまいましたから……それもあって今日は早いんです。」
「なるほど。まあ私もそのようなものです。」
「……そうでしょうとも。」
 サフィールが呆れたように笑うので、ジェイドは怪訝な顔をした。伸びたままの背筋と、きちんとそろえられた歩幅、歩き方。特に変わったところはないはずだった。眼鏡をかけ直したサフィールと目が合う。それがなんだかぼやけているような気がして、思わずジェイドは眉間を抑えた。
「今日の夕食の予定は、ジェイド?」
 目線を戻す。今度はサフィールの姿ははっきり見えるが、彼の眼はうつろなままだった。ジェイドが誘いを断ったら食事をとらずに寝るか、バーで悪酔いをするだろうと容易に想像できるくらいには。

 街灯の灯りが前を歩くサフィールの銀髪をやわらかな卵色に染める。最近勤務時間が長かった、というのは本当のようで、ジェイドはしばしば、のろいサフィールの靴のかかとを踏みそうになった。
 休日の前というわけでもない半端な日の、街灯がともり始めるくらいの半端な時間であったからか、サフィールの案内した店は空いており、二人は窓際の席に案内された。サフィールは慣れた様子で店員からメニューを受け取り、それを即座にジェイドに渡してきた。
「どうぞ」
「……あなたは決まっているのですか?」
「いえ、あなたと同じものにします」
「どれがおいしいとか、どれがおすすめとか」
「特にありません。というかあまり、覚えていない。メニューを見ると悩むとわかっているので、同行者と同じものにすると決めているんです」
 言い終わったのち、サフィールは外を眺めだしてしまった。関心を持ちすぎておいていかれるくらいなら、関心すらも捨ててしまう。そのような極端さが彼にあることを、ジェイドは思い出してきた。みぞおちに空気が通る嫌な感触がする。空腹なのだ。
「その様子だといつも誰かと食事に行ってるんですか?」
「……決まったんですか?ここは注文してからが長かった気がするので早く頼んでしまいましょう。」
 妙に話を逸らされたと感じた。追及する間も与えられぬまま、サフィールが店員を呼ぶ。
「ご注文は?」
「サーモンとトウフのサラダ」
「を二つ」
「あとバゲットを」
「二人分」
 かしこまりました、と店員が去っていくのを見て、サフィールが口を開く。
「ずいぶんつつましやかな夕食ですね」
「この年になると脂っこいものなんて食べられませんよ」
「そうでなくても、もう少し食べると思っていました。」
「ご期待に沿えず申し訳ございません。まあでも、好物なので」
「え」
 息が落ちる。サフィールが眼を見開く。まるで意外、といった表情だった。
「おや、私に好物があってはおかしいですか?」
「……まあ、驚きました。あなたはいつも、凪いだ表情で食事をしていた気がしたので」
「感情が表に出ないもので」
「……そうですね」
 ジェイドは再び怪訝な顔をすることになった。サフィールはショックを受けているようだったが、原因が全く分からない。サフィールはジェイドを理想化しすぎる部分があるが、好物がある、というのは彼の理想とはずれていたのだろうか。
「"金の貴公子"は好物など持たない無機質なものなのですか?」
「……なんの話ですか?」
「失礼。勘違いです」
 ちょうどよく店員が食事を運んできたので、会話は中断となった。グランコクマは海沿いにあるため、海産物が豊富であり、もちろんサーモンの状態はいい。エンゲーブ産の大豆で作られたトウフの舌触りも滑らかだ。
「どうしたんですか?」
 向かいの席から食器の音がしないので目線を上げれば、サフィールがこちらを見つめていた。その表情は張りつめていて、唇は固く閉ざされており、息すらもひそめているようだった。
「いえ……確かに好物、なのだなと」
 絞り出すようにそうつぶやき、サフィールが食事を始めた。彼は過去のジェイドの食事の様子を凪だと言った。ゆえに、好物があると思わなかったと。それを言ったらサフィールもそうだ。彼はいつも、押し込むようにして食事をする。何が好物なのかはおろか、味の違いが分かっているのかも判然としない。
 ふと、サフィールの頬が白い光で照らされているのに気づき、窓に目をやった。
「今日は満月ですね」
 相変わらず押し込むように食事をしながら、サフィールが言った。


出来ればシリーズで書きます。

2023.02.24.