おかしたそのさきの

 触れるということは暴力だ。
 自分と相手との間に引かれた境界を超えること、それはつまり相手の、相手だけの空間を侵すということだ。これは立派な侵略で、暴力で――だからこそ、多くの人がその力を行使したいと望む。それは相手を虐げたいという望みによるものではない。暴力が許される関係性に憧れているのだ。相手の侵略をゆるすことはすなわち、相手の世界と自分の世界が溶け合うことをゆるすことで、それはひとつになることへの了承だ。
「しかし付き合いが長いことや、親しいことがそのまま、自動的に接触を許すことにはならないんです。そこにはきちんと、明示的に、許可の申請と明確な了承があるべきなんです。暴力以外の意図でその力を行使するつもりがあるのならば」
 サフィールは幼いころから、接触をひどく拒んでいた。級友が親しみを込めて背中に手を添えたり、肩を小突いたりした際に、サフィールは着き飛ばすなどの暴力をもって応答していた。もちろん向こうにとっては暴力をふるっているのはサフィールである。けれどサフィールにとってはずっと、「先に仕掛けてきたのは向こうのほうだ」という解釈らしい。私に触れるな、私の境界を侵略するなと、彼の身体は常に叫んでいた。
 だから、これは暴力なのだ。
「ジェイド…?」
 腕の中のサフィールの身体はすっかり緊張してしまっていて、呼吸すらもままならない状態だった。彼の身体はジェイドの行動を、「暴力を受けている」と解釈している様子だった。ジェイドは震えるサフィールの身体を、まるで自他の境界のかたちを確かめるかのように強く、強く抱きしめていた。骨ばった肘を、緊張する肩を、強張る腰を、震える頬に滑る髪を、ひとつひとつ、彼の世界を侵略しているという自覚をもってかたどっていった。
 このまま一つになれたらいいのに。心臓が早鐘を打つ意味を、言葉以外でサフィールに伝えられたらいいのに。けれどサフィールが求めているのはことばなのだ。誰の目にも明らかな意思表示でなければ、暴力でない形で彼に想いを伝えることはできないのだ。
「ジェイド、なんなのですか、これは、説明してください」
「お断りします」
「どうして」
 抱きしめられたまま、抵抗もせずにサフィールが訴える。ことばをくれと。意思を示せと。
「あなたは会話ができるはずだ。私に教えてくれるでしょう」
「会話はできます。話もできる。きっとあなたに伝えることもできる」
「ではどうして」
 きつく問い詰めるサフィールの細い声に、ジェイドは沈黙するしかなかった。
 自身の行動を、誰にでもわかる形にするのは恐ろしく簡単だ。誰にでもわかる形にする。それは、誰にでも、正誤判断ができるかたちにするということだ。
 この行動が、この行動に至るまでの自身の心情が、正しいものか正しくないものか。迷惑なのか喜ばしいものなのか。
 そんなの、もうすでに、腕の中で震えるこの男をみれば明らかなのに。
「……失礼しました」
「ジェイドっ…!」
「あなたがこういうことに嫌悪の感情があるとわかっていて行いました。これは立派な"暴力"です」
「……」
「謝罪します」
 サフィールの身体から距離を置く。お互いの間の境界が一層濃くなったような気がする。自分はこの境界を溶かすことは決してできないのだろうという思いが肚をずしりと重くする。
 俯くサフィールに背を向けて息を吐き、ドアノブに手を伸ばす。その手に、手袋越しに、暖かい力で圧をかけられた。
「……すみません。私も今、あなたを侵害しています」
 震える細い指がドアノブを掴む手に添えられていた。平たく薄いてのひらが手の甲に重ねられていた。
「……私にとってこんなもの、暴力でも何でもない」
 絞り出せたのは、そんな程度の言葉だった。


言語化至上主義のサフィールに触れたいけれど、言葉にすることで判断されてしまうことが恐ろしいジェイド

2023.07.30.22:49